法師の始まり
奈良の都に仏教が盛んになった奈良時代は、一方では疫病や災害が多くその収束を願い多くの名僧が人跡未踏の山に登り厳しい修行を行い仙人の術を会得しようといたしておりました。いわゆる山岳仏教の始まりです。その一人が有名な泰澄大師です。
泰澄は、樵の笹切源五郎の道案内により白山の山頂をきわめ、何年もの修行を行い、そこで白山大権現から「粟津村にある霊泉を掘り当て末永く人々の為に役立てるがよい」というお告げを頂きました。そのお告げに従って粟津村のこの法師旅館で温泉を掘り当てました。
それを、弟子の雅亮法師に命じて一軒の湯治宿を建てさせ、その湯守をお任せになった時から法師の歴史は始まります。
時は、養老二年(西暦718年)でした。
当館のHPに掲載している内容ですが、この当時人々の暮らしはどんなだったのでしょうか。奈良の都では、平城京の街並みが出来上がり東大寺や薬師寺など現在の有名観光スポットが多く建立されました。書物も古事記や日本書紀など日本の歴史を文字として残すことが始まった時代ですのですごく煌びやかなイメージが湧いてきます。
さて、そのようなイメージからあれこれ調べていると、地方の庶民はというとまだまだ弥生時代の生活様式が残り住まいは竪穴式住居、衣類も麻が支流な時代であったそうで驚きました。
粟津の地も当然そのような状況であったことでしょう。
その地名のとおり、粟津は食物の「粟」が多く取れた潟であったというような話も聞きます。
きっとその頃の粟津では、農耕と共に狩猟も行われ人々はそれらによる疲れや怪我、病気を温泉で労ったのではないでしょうか。
かくして1300年、人々に愛され続けた結果、現在の46代善五郎に受け継がれていると思うと感慨深いものがあります。
温泉を通してその湯守として「法師善五郎」を代々襲名することで世界でも類稀な長寿企業になれたことは、温泉を粟津の地で発見した泰澄大師が白山大権現から頂いた「末永く人々の為に役立てるがよい」という教えを雅亮法師、そこから繋がる46人の法師善五郎が教えを守り抜いた結果であると思うと、仏教的な繋がりを感じずにいられません。
私たちも、その教えを守り抜き後世へ繋いでいきたいと、大それたことを思ってしまう今日この頃です。
令和元年11月16日
法師番頭の与太話