法師の守り神
私は、よくお客様から創業1300年ということだけど、1300年前の建物はどれとか、1300年前の物はないのというお言葉を頂きます。
確かに奈良に行けば昔の建物や物がよく紹介されたりしていますが、当館では玄関棟や貴賓室延命閣が明治の建築で、それ以外は昭和の建築になります。
庭園やご神木の黄門杉も400年程前ですので江戸時代の頃になります。
到底1300年前の物はないのかと諦めかけておりましたが、法師に伝わる仏像がそのものであると善五郎に聞いて驚きと凄さでえも言われない感覚に襲われました。
その仏像は、泰澄大師が温泉を発見され、雅亮法師に湯守を命じられた時に大師がお彫りになられた阿弥陀様を託されたものらしく、それを代々の善五郎が受け継いできたそうです。
テレビや雑誌の取材で何度か御開帳されたことがありますが、私たちもまず見ることはありません。
そんな仏像ですから一般に公開は出来ませんので今回は、その写真と逸話をお話いたします。
昭和九年ほどのこと。ある晩、法師旅館の先先先代にあたる女将さんが夢を見ます。それは笹木本家の如来様が「粟津へ行きたい。粟津へ行こう」と言っている、というものでした。
如来様の夢から覚めた女将さんは、「これは何かあったのか。仏さんが粟津へ行きたいと言うとるのならば、お迎えに上がらねば」と思い立ち、徒歩で市ノ瀬へ向かいます。山を渡り、谷を越え、そうして女将さんは、市ノ瀬と粟津の中間にある中の峠で、大事そうな行李を抱えた笹木家のお婆さんと出会うのです。
開けば同じ日、笹木家のお婆さんもまたご本尊の阿弥陀如来が「粟津へ行きたい、粟津へ行こう」と言っている夢を見たのだそうです。それでお婆さんは、このお阿弥陀さんがそれほどまでに言うのなら、と皆を説き伏せ仏さんを背負って粟津へ向かい、この峠で法師の女将さんとばったり出会うことのなったのだと。「不思議なこともあるもんや。これは何かのお知らせなんやろうかねぇ」
女将さんは笹木のお婆さんから白峰のお阿弥陀さんを預かり、大事に法師のお宿へお連れしました。そのようなことのあったしばらくの後、河内集落を大土石流、巨大な山津波が襲ったのです。
被害は甚大、田畑も家屋も一切が押し流され、六十数名いた河内集落の市之瀬笹木氏もわずか十名が助かったのみで、笹木家の大部分が河内集落を離れ、北海道へ開拓移民などとして向かう一因となってしまったのだとか。
法師善五郎さんは「仏様は山津波が来るから皆逃げろ、と言っていたのかもしれないけれど、聞くもんに機縁が無かったから受け取れなかったのかもしれないですね」と仰っておられました。
法師善五郎さんはこの仏様のお顔が大好きで、気が付くとよく眺めておられるのだそうです。
粟津町会報誌より抜粋
令和2年5月10日
法師番頭の与太話